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氷上の炎(ほむら)
北海上空4500m,見えるのは空,そしてその空とどこかでつながってしまっている海,それだけ。寒々しさはすさまじいほどで,西海岸出身の私としてはあまり近寄りたくない場所だ。が,この海では物騒な荷物を満載した船団とチャンスに飢えた狼のようなUボートが派手に追っかけっこを続けているというわけで,いまはここが私の仕事場だ。私の仕事の道具,ボーイング謹製の爆撃機は,3番エンジンのオイルが時々潰れたにきびのように吹き出すくらいで,まぁ快調だ。一方私の部下であり仲間であるボマークルーたちは,いささかこの連日の任務にうんざりしているようだった。
最後尾の銃座で『ビリッケツの』サイモンが叫んだ。「あー,あれ?なんか追っかけて来る...高度はあっちがチョイ下だ...6時から8時...おい,ベッドタイムのガンナー,そっちで見えるか?」ベッドタイム,すなわち9時方向の側面銃手,モリスンが面喰らうように答えた。「見えるとも,あー,見える,でも...」私は正確な報告を求めた。「何が見えるのかはっきり言え,何が見えてても驚かないぞ」。ワンテンポおいて返答があった。「火です。火の玉が飛んでます」。
数日前,将校のサロンでおこぼれに預かっていた時,耳にしたことを思い出した。北海方面のクルーに士気的にモンダイがある,変なウワサも出てるしな,なにせ北海には火の玉が飛んでるってことだ,と。まさか我がクルーまでがそのような世迷い言を言い出すとは。
「おい『ヘソ下』,お前には何が見える,言うんだ!」。下面動力銃座のグレッグはやっと答えた「申し訳ありません,やっぱり火の玉が見えます...機を追い越しながら上昇します,キャプテン,そっちでも見えますよ!」。私は側面の窓に額をこすりつけた。冷えきったプレキシガラス越しに見えたのは,真っ赤な炎が尾を引いて頭上12時へ飛んで行く様だった。少し距離があり,雲量もあり,白く暴れる海が見え隠れする条件だが,私の目にもそれはやはり火の玉に見えた。
頭上に消えようとするそれを目で追いながら,馬鹿な話だ,と私は思った。アメリカから旧大陸までやって来て,パブも何もないイングランドの片田舎に閉じ込められて,ついぞ太陽の姿を見ることのない空の下,鉛のように無口な海の上で,あやふやなミッションを繰り返すと,人間はこんなものを見るのか。火の玉が,まるで航空機のような機動で飛んで行く...私ははっとした。そして仕事を思い出した。
「気をつけろ!やつはもう一回来るぞ!」ありったけの声で叫ぶ。「キャプテン,どういうことですか!?」と操縦士のバクスターが振り返る。「バカヤロー,前を見るんだ!!あいつが来るぞ,おい『トップハット』,頭上12時に注意しろ!」。上部動力銃座のマークは慌てて虚空を見上げる。そこには迫りくる火の玉が見えた。「来ました,やつが来ました!」。
「撃って来るぞ!」。私が叫ぶや否や,マークが絶叫する。「なんてこった,火の玉が撃って来た!」。動力銃座がけたたましい音を立てて応戦をはじめる。「火の玉の野郎,メッサーを連れてるぞ....いや....火の玉なんかじゃない,こいつもメッサーだ!」。
私の目の前で,機首銃座のハリーと副操縦士のレオンが一瞬にしてやられた。機体に大きな火の玉を描いた狡猾なメッサーとそのペア機は,鋭く下方に抜け,視界から消える。自分の身の上に起こったことがはじめて理解できた。2番エンジンのカウルフラップの間からからオレンジ色の炎が舌のように見え隠れする。バクスターはこいつを止め,プロペラをフェザー状態にする。あいつの子分のような炎は消えたが,こっちもスピードを失った。どうせなら3番を殺してくれれば気も楽だったのだが。頭上からの第一撃を喰らってしまった以上,後はヤツらの常套手段,後方からの追尾を覚悟しなければなるまい。この高度,この天候なら,いったん高度を落としたメッサーが追撃に入るまで少し時間があるはずだが....。
しかしすぐに『ビリッケツ』が叫んだ。「また来ました,今度はあいつの高度が上です,ヤツが,火の玉が来ました....!」。
なんということだ。あいつはメッサーですらないのか?本当に火の玉なのか?確かな理由は何もないのに,私は生還の確率がどんどん下がって行くのを直感していた。セント・エルモの火は,本当に厄病神なのだろうか。私は眼下の海を見ていた。
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